人物
2006年08月16日
大伴家持
大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)か - 延暦4年8月28日(785年10月5日))は奈良時代の政治家、歌人、三十六歌仙の一人。祖父は大伴安麻呂。父は大伴旅人。弟に大伴書持がいる。叔母には大伴坂上郎女がいる。鑑真を日本に密航させた大伴古麻呂は、大叔父か。
『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下となる。 天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。この間に220余首の歌を詠んだ。少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画に立案した。事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けること になった。宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。
歌人としての家持
長歌・短歌などあわせて473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七〜二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌は、『万葉集』には載っていない。
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『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父安麻呂、父旅人と同じく政治家として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間に中納言まで昇る。
天平10年(738年)に内舎人と見え、天平12年(740年)九州の大宰府にて藤原広嗣が起こした乱の平定を祈願する聖武天皇の伊勢行幸に従駕。天平17年(745年)に従五位下となる。 天平18年(746年)3月に宮内少輔。7月に越中国国守となる。
天平勝宝3年(751年)までに赴任。この間に220余首の歌を詠んだ。少納言となって帰京後、天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、万葉集の防人歌収集につながっている。
橘奈良麻呂の変には参加しなかったものの、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺を計画に立案した。事件は未遂に終わり、良継一人が責任を負ったため罪には問われなかったが、天平宝字8年薩摩守への転任と言う報復人事を受けること になった。宝亀7年伊勢国国守。伊勢神宮の記録では5年ほど勤めたという。
宝亀11年(780年)、参議に昇進したものの、氷上川継の謀反事件(氷上川継の乱)に関与を疑われて都を追放されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。延暦2年(783年)、中納言に昇進するが兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために陸奥に滞在中に没した。
没直後に藤原種継暗殺事件が起こり、家持も関与していたとされて、埋葬を許されぬまま除名。子の永主も隠岐国に流された。大同3年(806年)に従三位に復された。
歌人としての家持
長歌・短歌などあわせて473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七〜二十は、私家集の観もある。『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌は、『万葉集』には載っていない。
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前田 利長
永禄5年1月12日(1562年2月15日) - 慶長19年5月20日(1614年6月27日))は安土桃山時代の武将、加賀藩初代藩主である。前田利家の嫡男。妻は織田信長の娘・永姫(玉泉院)。犬千代、孫四郎。初名は利勝。その後、利長と改名。
尾張国荒子城(愛知県名古屋市)に生まれる。
初めは信長に仕えて越前国府中を与えられ、信長の娘の永姫を室に迎える。1582年の本能寺の変では京都を脱出して織田信雄の軍に加わり、信長没後は利家とともに柴田勝家に属するが、勝家の自殺後は豊臣秀吉に仕える。
1585年、秀吉により佐々成政が支配していた越中国(富山県)が制圧されると、同国射水郡・砺波郡・婦負郡32万石を与えられた。
1599年、父・利家が病没したため、家督を相続し、豊臣政権では五大老となる。若年より秀吉旗下の将校として転戦しており、父である利家を上回る程の軍歴を持ち、加賀藩の礎を築いた。
利長には実男子がなく、異母弟の利常(利家の四男、初名は利光)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した。
1609年、富山城が焼失したため、高山右近に命じて射水郡関野に新しい城(高岡城)を築き移った。
1614年に高岡城(富山県高岡市)で病没、享年53。高岡に葬り、利常が菩提寺として瑞龍寺(堂宇は国宝)を整備した。高岡市立博物館で常設展示により書跡等の関連資料を展示している。
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尾張国荒子城(愛知県名古屋市)に生まれる。
初めは信長に仕えて越前国府中を与えられ、信長の娘の永姫を室に迎える。1582年の本能寺の変では京都を脱出して織田信雄の軍に加わり、信長没後は利家とともに柴田勝家に属するが、勝家の自殺後は豊臣秀吉に仕える。
1585年、秀吉により佐々成政が支配していた越中国(富山県)が制圧されると、同国射水郡・砺波郡・婦負郡32万石を与えられた。
1599年、父・利家が病没したため、家督を相続し、豊臣政権では五大老となる。若年より秀吉旗下の将校として転戦しており、父である利家を上回る程の軍歴を持ち、加賀藩の礎を築いた。
利長には実男子がなく、異母弟の利常(利家の四男、初名は利光)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した。
1609年、富山城が焼失したため、高山右近に命じて射水郡関野に新しい城(高岡城)を築き移った。
1614年に高岡城(富山県高岡市)で病没、享年53。高岡に葬り、利常が菩提寺として瑞龍寺(堂宇は国宝)を整備した。高岡市立博物館で常設展示により書跡等の関連資料を展示している。
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佐々成政
天文5年1月15日?(1536年2月6日) - 天正16年閏5月14日(1588年7月7日))は、戦国時代・安土桃山時代の武将。尾張国出身。父は佐々成宗(盛政とも)。通称内蔵助(くらのすけ)。陸奥守、侍従。家紋は棕櫚。馬印は金の三階傘。
府中三人衆時代
成政は鉄砲の扱いに長けていたと言われ、長篠の合戦では鉄砲隊を率いて活躍した。のちに北陸方面の軍団長柴田勝家の与力となり、前田利家・不破光治とともに越前府中3万3000石を与えられ小丸城を築いて居城とし、府中三人衆と称せられた。府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、かなり独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山本願寺攻めや播磨平定、荒木村重征伐などに援軍として駆り出されることが多かった。
越中時代
1580年頃より対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中国平定に関わるが、1581年2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の神保長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城とした。本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が別れた。
明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、成政は柴田方につくが、賤ヶ岳の合戦には上杉軍への備えのため越中を動けず、合戦に参加出来なかった。成政は勝家を滅ぼした秀吉に対して徹底抗戦の構えを見せていたが、越中一国を安堵され矛を収めた。しかし翌天正12年小牧・長久手の戦いが始まると、成政は徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対して末森城の合戦が起こった。また越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。ところが秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退が窮まると、成政は家康に再挙を促すため、厳冬の北アルプス・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」であった。しかし結局説得は功を奏せず、壮挙は空しく失敗した。
翌1585年、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中国東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。
肥後時代
1587年の九州平定で功をあげたことを契機に、肥後国一国を与えられた。秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われるが、これが言葉通りの意味に取れるかは不明。病を得ていたとも言われる成政は、早速に太閤検地を行おうとするが反対する国人が一揆(肥後国人一揆)を結び反抗した。このため、失政の責めを受け摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。享年53(諸説あり)。戒名は成政寺庭月道閑大居士。
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府中三人衆時代
成政は鉄砲の扱いに長けていたと言われ、長篠の合戦では鉄砲隊を率いて活躍した。のちに北陸方面の軍団長柴田勝家の与力となり、前田利家・不破光治とともに越前府中3万3000石を与えられ小丸城を築いて居城とし、府中三人衆と称せられた。府中三人衆は柴田勝家の与力とはいえ、かなり独立した織田軍の遊撃軍的存在で、石山本願寺攻めや播磨平定、荒木村重征伐などに援軍として駆り出されることが多かった。
越中時代
1580年頃より対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中国平定に関わるが、1581年2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の神保長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城とした。本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった。しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が別れた。
明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、成政は柴田方につくが、賤ヶ岳の合戦には上杉軍への備えのため越中を動けず、合戦に参加出来なかった。成政は勝家を滅ぼした秀吉に対して徹底抗戦の構えを見せていたが、越中一国を安堵され矛を収めた。しかし翌天正12年小牧・長久手の戦いが始まると、成政は徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った前田利家と敵対して末森城の合戦が起こった。また越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。ところが秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退が窮まると、成政は家康に再挙を促すため、厳冬の北アルプス・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」であった。しかし結局説得は功を奏せず、壮挙は空しく失敗した。
翌1585年、秀吉自ら越中征伐に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中国東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。
肥後時代
1587年の九州平定で功をあげたことを契機に、肥後国一国を与えられた。秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われるが、これが言葉通りの意味に取れるかは不明。病を得ていたとも言われる成政は、早速に太閤検地を行おうとするが反対する国人が一揆(肥後国人一揆)を結び反抗した。このため、失政の責めを受け摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。享年53(諸説あり)。戒名は成政寺庭月道閑大居士。
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